教会便り 2022年1月
パンジー
花言葉:もの思い
カトリック島田教会
〒427⁻0041
島田市中河町 344
0547-37-1906
ねえ、あの宝物はどこにいったの・・・?
カトリック藤枝・島田教会主任 金子尚志神父
以前いた幼稚園でクリスマス会の後である園児が突然このタイトルの質問をしてきました。「あの宝物・・」、よく話を聞いてみるとそれはクリスマス会で博士を演じた子供からの質問でした、そしてその宝物とはもちろん「黄金、乳香、没薬」です。福音書にあるように「 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(マタイ2.10-11)と記されています。しかしそれ以降、聖家族がその高価な宝物を用いて生活が楽になり毎日安心して暮らしたなどという記述は一切ありません。それどころかヘロデ王の迫害から逃れてエジプトへと逃げていきます。
そもそも博士たちは何のために高価な宝物を幼子イエスに捧げたのでしょうか? 東方から来た博士ですから自分たちの国に生まれた救い主ではありません、自分たちの子孫がこのイエスによって恩恵を受けることも期待できません、さらには幼子イエスが成長するころには博士たちは亡くなっているものと思われます。このように博士たちにとっては何の益にもならないのに高価な宝物を幼子イエスに捧げました。私はこの博士たちの行為は、この世界に生きていくための心の基準が生まれたことへの感謝のしるしだと思っています。人は生きていくときにどうしても自分にとって損得を考えてしまいます、それは自分の家族、自分の友人、恋人、自分の国・・・の損得にもつながります。しかし人間は損得だけでは生きていけない何かを宿しています。その人間の心の中に眠っている心の基準となるものこそイエスそのものです。星によって導かれた博士たちはそのことが現れたことへの感謝のしるしとして宝物を捧げられたのでしょう。それはイスラエルだけでなく東方だけでなく、全世界に及び全時代を超えていきます。しかし私たちはどこまでも損得に左右されがちです。その代表者がヘロデ王です。自分の地位を脅かす者が現れたことを博士たちから聞いて恐れ、怯え、怒り、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ 2.16)と福音は記しています。このように自分の地位を保つためなら幼子さえも皆殺しにしてしまう恐ろしい心があります。そして私たちにもヘロデ王のような狡猾な心があり、一方では博士たちのような誰かを思う純粋な心もあります。そのことを「イエスと出会う」という詩が次のように告げています。
「イエスと出会う」
「わたしたちはときに噛みつきそうな勢いで人を叱ったかとおもうと、次の瞬間にはにっこりと微笑む 嘘をついて取り引きしたかと思えば不利になってでも真実を言ったりする
あるときはあなたしかいないという気持ちで歌を捧げ
あるときはあなたがそこにいないかのようにふるまう
社会正義を声高に叫んだかとおもうと
人を助けるために指一本動かそうともせず
すべてを独占したかとおもえば 気前よく全部を分けたりする
そんなわたしたちをそれでも神は信頼し
わたしたちのなかに隠れている太陽が輝くようにと
いつもの瞬間をわたしたちにくださる」
(アルベール・アリ・シンガー「イエスと出会う」)
※2022 年 1 月 2 日はこの博士たちの来訪を祝う「主の公現」の日です。
第8回運営推進会議議事録 2021.12.5
日時:12月5日(日) 12 時~13 時
場所:集会室
出席者:7 名
1.報告事項
会計係から収支報告
聖書週間終了。聖書展に一般の方からの反響があった。
黙想会終了
ベルナデッタ像購入募金終了、発注済み
馬小屋の設営
クリスマスツリーの飾りつけ
掲示板の更新
教会便り12月号の発行
ホームページの更新
2.議題
降誕祭前夜ミサ、当教会で
クリスマス福音宣教―高田三郎の典礼聖歌―
一般の方も含め参加者 10 名
文責:八木
1 月のカレンダー
1 月 1 日:神の母聖マリア・世界平和の日
1 月 2 日 :主の公現・ 11 時
1 月 9 日:主の洗礼・ 11 時
1 月 16 日:年間第2主日・徳山教会・11 時・13 時 30 分
1 月 23 日:年間第 3 主日(神のことばの主日)・ 11 時
1 月 30 日:世界こども助け合いの日 年間第 3 主日・11 時
平和の祈り(ロザリオの祈り)・毎週土曜日・9時 30 分
1 月の予定
1 月 9 日(日):ミサ後 運営推進会議
1 月 15 日(土):14 時 志太榛原地区宣教司牧委員会
1 月 30 日(日):ミサ後 日本語教室
書評:寺島実郎「人間と宗教 あるいは日本人の心の基軸」岩波書店
編集子
筆者は、1980年9月のイラン・イラク戦争勃発当時、三井物産の社員として、石油化学コンビナート事業のイランでの展開を進めていた。建設現場が爆撃され、懸命のクライシス・マネジメントを余儀なくされ、この課題解決のために中東問題の専門家や地域の人たちと相対するには、キリスト教、イスラム教という中東一神教の理解が不可欠だった。本書は、現場でのフィールドワークと文献研究の往復の中で積み上げられた人間と宗教についての考察の集約である。
戦後日本は、ひたすら「経済の復興・成長」を最優先して、宗教などなくても、繁栄を実現すれば平和と幸福はついてくるという PHP の思想に、人びとが共鳴し、「宗教」にも近い思い込みとなっていった。そこに新型コロナウイルスが襲いかかり、命の危機が迫る不安・恐怖の中で人間の心を支えるものとしての回復力が問われることになった。経済に専心して築き上げたバベルの塔は意外なほど脆く崩れ去ったようにも見え、改めて、日本人の心の基軸の再構築が求められている。日本のキリスト教受容の理由は、①16世紀の日本が、貨幣経済の形成と商業資本の形成期であった「社会的背景」②日本のキリスト教理解には「浄土教的救済観が媒介」し③ 宣教師の苦闘・努力がある。今日でも、日本のキリスト教徒が人口の1%に満たない理由は、相変わらず欧米の教会(総本山)に依存する教義と活動の枠組から変容しきれないことと関係している。他国では、伝来と普及・浸透の過程で独自の変容と発展を見せていたと筆者は力説する。
筆者は、宗教性の希薄の要因を①宗教と政治権力が一体となった戦前の時代への反動によって生じた「空漠」という要素②経済主義への傾斜③「社会主義の幻想」、宗教よりもイデオロギーを奉じた戦後日本人は、宗教を正視する回路もなく、目指すべき針路もないままグローバル化の潮流に飲み込まれていったからだと説く。
世界はコロナ渦という無明のトンネルの中にあって、誰もが「生命」「運命」「幸福」など個人の意思を超えたものに心が向かう体験をしている。本書では、摂理という言葉があるが、ウイルスも人類もその摂理の中にあり、この摂理を心に置くことが「希望」に繋がると説く。
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