教会便り 2022年 10月

サフラン
花言葉:歓喜


カトリック島田教会

〒427⁻0041

島田市中河町 344

0547-37-1906


先生、お言葉ですから・・・(ルカ福音書5・5)

藤枝.・島田教会主任 金子尚志神父

  この表題はシモン・ペトロがイエスを先生と呼び、彼の言葉に従って網を打つ場面です。正直、ペトロは夜通し漁をして疲れていましたが仕方なく先生であるイエスの言葉に従いました。私たちは今まで沢山の先生に出会い教えを受けてきましたし、今も受けているかもしれません。この「先生」という言葉で皆さんはどのような先生を思い浮かべるでしょうか?厳しい先生、優しい先生、おもしろい先生、頼れる先生・・・。福音の中でイエスは多くの人から「先生」と呼ばれています、イエスを「先生」と呼びかける人は彼に何を期待しているのでしょうか?

  「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」(マタイ福音書 12・38)。ここではしるし(奇跡や不思議なわざ)を求めてイエスを「先生」と呼んでいます。あるいは「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』」(マタイ福音書 19.16)、「永遠の命」すなわち人生の究極的な目標をイエスに求めて「先生」と呼びかけます。さらには「 群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」(ルカ福音書 12.13)ここでの「先生」はイエスを裁判官や調停人として呼びかけます。きわめつけは「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」(マルコ福音書 14.45)。ユダは裏切る合図として接吻しイエスを「先生」と呼びかけます。口では「先生」と言いながら裏切っていきます。

  ところで私たちもイエスのことを「先生」と呼びかけるときそこに何を期待しているのでしょうか? 倫理・道徳の模範者、人生を歩むための処世術の指導者、天国への導き手など。アメリカの教育者、ウイリアム・アーサーワードという方は「先生」について次のように話しています。「凡庸な先生はただしゃべるだけである。良い先生は説明する。優れた先生は自らやって模範をしめす。しかし偉大な先生は私たちの心に火を灯す」。

  「先生」と呼ばれたイエスはどうでしょうか? イエスは確かに神の国について説明されました、また聖木曜日の洗足のときに私たちにお互いに仕えるようにと模範を示されました。しかしイエスに出会ったあのエマオの旅人が話していた言葉こそ先生としてのイエスの真実であり核心です。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(ルカ福音書 24・32)

  私たちもイエスから天国に至るための説明や生き方の模範ではなく愛の火を心に灯してもらうためにキリスト者となったのです。



第14回運営推進会議

日時:9月18日(日) ミサ後

場所:集会室

参加者: 6 名

1. 報告事項

志太榛原地区共同宣教委員会・黙想会について

60周年誌原稿募集について

原稿依頼者を決めて、個別に頼むことにした

講演会ポスターについて

会場が「歩歩路」から「あすか」に変更になった

掲示板を更新した

2. 議題

敬老会について

該当する10家庭に記念品を配布した

60周年誌について

松本印刷に依頼することとした



黙想会に寄せて

編集子

  9 月 24 日の黙想会では、人間は、本来、「孤独」と「不安」の葛藤の中に生きていて、宗教の基本は、人間を「孤独」から救い出すことにあること。それに加えて、評価されたい、愛されたい、受容されたいという思いは、すべての人間が、根本的に求めているものだと言うこと。更には、一人ぼっちで、拠り所がなく、不安で寂しいという「孤独」(ロンリネス)からは、誰もが抜け出したいと思っているとの説には、ご尤もと、首肯させられました。お話しを伺いながら、もうひとつの孤独(ソリチュード)のことに、思いを馳せておりました。この、もうひとつの孤独(ソリチュード)とは、御存じのように、自分を意識して、自分に立ち帰って、充実した自己を生きている時の謂いであり、一人でありながら、却って、深い喜びや静かな安らぎを与えてくれるものであって、その中でこそ、無限なる方との交わりが齎されるものに他なりません。お話を聞きながら、何よりも大切な、もうひとつの孤独(ソリチュード)のことに、思いを深めさせて戴きました。お話では、加えて、イエスが、重い皮膚病を患っている人を癒す際、イエスの受容は、何よりも先ず、相手と同じ苦しみに身を置くことから始まり、癒した後、あなたの信仰があなたを救ったのだと説かれたこと。そしてまた、癒しは一過性のものであり、救いは人生全体に係るものであるという違いについて力説されました。更には、罪深い女を赦す話、百人隊長の話にも言及されました。心に深く沁みる、癒しと赦しの話を聴きながら、誰にもよく知られている「山上の説教」が、自ずから、胸内深く、湧き起って来ました。「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。原文の「貧しい人たち、霊において」とは、言うまでもなく、「神の前で謙遜な人、乞い求める人、自ら誇るものは何もなく自分の精神的な貧しさを知っている人」の謂いであり、「貧しい人」とは、「虐げられている人、苦しんでいる人、謙遜な人」であることは、誰にも、よく知られているところです。話題に上った、重い皮膚病を患っている人、罪深い女性とは、福音書で言われている、「病気の人、道徳的にいかがわしい人」など、全く救われる可能性のない人たち、「罪びと」と見做された人たちであり、この人たちが「悔い改め」を通して、救われるということについて、説かれました。お話しに耳を傾けながら、遠い昔、44 年前の「共同訳」では、「心の貧しい人」という言葉を捨てて、思い切った翻訳―「ただ神により頼む人々」―がなされ、眼を見張ったこと。ところが、案の定、避難や不満の声が巻き起こり、それでは、余りにも神を当てにする身勝手な目論見が感じ取られる等、強い反対に晒されて、改定を余儀なくされ、そこで、編集委員会では、止むなく、「神に依りすがる貧しい人々」とすることで、見解が一致していたのに、いざ、ふたを開けてみると、「新共同訳」では、「心の貧しい人々」という、従来通りの翻訳に戻されたといういきさつ等が、脳裏をかすめました。黙想会では、「孤独」と「心の貧しい人」に、想いを巡らせて戴きました。



10 月のカレンダー

10 月 2 日:年間第 27 主日・11 時

10 月 9 日:年間第 28 主日・11 時

10 月 16 日:年間第 29 主日・徳山教会・11 時・13 時 30 分

10 月 23 日:年間第 30 主日・世界宣教の日・11 時

10 月 30 日 年間第 31 主日・11 時

平和の祈り(ロザリオの祈り)毎週土曜日・9 時 30 分

10 月の予定

10 月 2 日(日):運営推進会議 ミサ後

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