教会便り 2021年6月
カスミソウ
花言葉:感謝
カトリック島田教会
〒427⁻0041
島田市中河町344
0547-37-1906
いつもわたしの内にいる
カトリック島田教会 金子尚志神父
私は糖尿病でご聖体をひかえています、あるいは私は高血圧でどうもご聖体をいただくことができません、という信徒に今まで一度も出会ったことがありません。いろいろな病気を抱えていても多くの場合ご聖体拝領は可能です。もしご聖体がジャムパンやメロンパンのような甘いものなら確かに糖尿病の人は控えるでしょう、また美味しい塩パンのようなご聖体なら高血圧の人は遠慮せざるを得えません。しかしご聖体はすべての人にとって受け入れられやすいように味を無くしています。それはある特定の人のためのご聖体ではなくすべての人にとってすべてとなるためです。それはイエス自身の生き方そのものです。ある特定の人々のために来られた救い主ではなく全人類のためのイエス・キリストです。この味のないご聖体はそれを拝領する人を通して外に味が現れてきます。イエスは福音の中で次のように語られています、
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5.13)。すなわち「地」とはこの世界であり「塩」とは聖体を拝領した信者が醸し出すキリストの味です。ご聖体を拝領した者はキリストの味をこの世界につけていくことこそキリスト者の使命です。またご聖体について聖パウロはご次のように記しています、
「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリ10.17)。今、私たちがミサの中で拝領するご聖体は一人ひとりが小さな同じ形のウエハースのようなものです、これはあくまでも大人数を前提とした便宜的なものです。本来は一つの大きなパンが割かれて一人ひとりに分け与えられます。私の拝領した一片のイエスの体は他の人が拝領したご聖体の形とは異なります、皆が形の違うご聖体を拝領することで、私たちはまたイエスの思いで一つになるようにと願われています。例えればジグソーパズルの一片のようなものかもしれません
素晴らしい絵や写真が 分割された一片がまた一つに組み合わされ一致するようにと招かれています。相手が拝領したご聖体は私の頂いたご聖体の一部を成しています。それが組み合わさってイエスの体一つの教会となります。
最後にご聖体はイエスとの一致のしるしですが、一般的に私たちがご聖体を拝領するとき私の中にイエスさまが来てくださると理解しています、しかし私の中にイエスさま来るだけでは本当の一致ではありません、ご聖体を拝領する人は私もイエスさまの中に入っていくのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6.56)。人間は母胎から産み落とされたときから孤独の大海に投げ出されたようなものです、その中で人は痛み、うめき、なげき、悲しみ・・・そのことをイエスは良く知っていました。そのような私たちにイエスは語りかけます「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14.18)。この言葉に信頼してご聖体を拝領しましょう。ご聖体を拝領することはイエスの思いを頂くことです。
6月6日「キリストの聖体」の主日に。
わが子の初聖体に寄せて
永田 達也
真紀子
この度、めでたく初聖体を受けることが出来ました。
子どもと島田教会に御世話になり、もう7年になりますが、この日を迎えることを
幸せに思います。
振り返ってみれば、島田の教会に通い始めの頃は、子どもが2人もいることにより、まわりに迷惑をかけてばかりで、なかなか、ミサに与ることが出来なかった時期もあり、神父様をはじめ、シスター、まわりの皆様のお蔭で、なんとかこの日を迎えることが出来、感謝の二文字しか思い浮かびません。
最近では、自らすすんで「こじか」を読むようになり、少しは、自覚とはいきませんが、少しは教会のことに関心を持ち始めたのかもしれません。
子どもには、神父様のお言葉だったり、ミサ(教会)で、何か一つ、感じてもらい、身につけてもらいたいと思っています。
島田教会は、皆さん、人が良くとても良い教会だと感じています。
今後も、いろいろと迷惑などをかけると思いますが、あたたかく見守っていただけると幸いです。
祝 初聖体
ミカエル歩夢君 ラファエル来夢君
受難劇の村
―オーバーアマーガウー
編集子
新型コロナウイリスワクチン予防接種の申し込みの折、不図、人口5000人程のドイツ南部の僻村・オ―バーアマーガウのことが、脳裏を掠めました。
1633年、この村にペストが蔓延し、当時の住民1、650人の内、320人の命が奪われてしまい、人びとは不安と恐怖に駆られました。
そこで、村議会では「この村を疫病から救って貰うために、今後、十年毎に、キリストの受難劇を上演して、神に捧げる」ことを決議し、教会で誓いを立てたところ、願いが通じて、ペストが止みました。
村人たちは、感謝して、誓い通り、受難劇を上演し、その後、紆余曲折を経ながらも、今日に至る迄、延々と続けられています。
受難劇は、朝九時半から、途中、昼休みを挟んで午後五時迄、演じられます。ディオニソスの神に捧げたギリシャ演劇さながらに、今日でも尚、当初の疫病終息の誓約を堅く守っていて、村人の4割近くにも及ぶ出演者・総勢1,900余名の、素人だけで演じられる荘厳な舞台には、この上もなく、敬虔な祈りが息づいています。
疫病蔓延の今、彼の地の、篤信の気に満ちた、受難劇を演じる村人一人ひとりの深い思いに、わが身を重ねています。
「美」に目を向けて、味わうことによって、利己的な実用主義を避けることが出来ます。
さもなければ、メディアと強力な市場メカニズムによって、消費主義という物の見方、捉え方が驀進し続けてしまいます。
「回勅 ラウダ―ト・シ ともに暮らす家を大切に」より
6月6日:キリストの聖体・11時
6月13日:年間第11主日・11時
6月20日:年間第12主日・11時
6月27日:年間第13主日・聖ペトロ使徒座への献金・ 11時
6月6日:第一朗読・永田様、第二朗読・フィリピングループ、共同祈願・Aグループ
6月13日:第一朗読・石田様、第二朗読・フィリピングループ、共同祈願・Bグループ
6月20日:第一朗読・三輪様、第二朗読・フィリピングループ、共同祈願・Cグループ
6月27日:第一朗読・飯田様、第二朗読・フィリピングループ、共同祈願・Dグループ
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