島田教会便り 2021年3月
島田教会便り 2021年3月
今、この時代に「聞く」とは何か
八木 博
四旬節第2週のマルコによる福音書(9-7)では、雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声がします。
今、この時代に「聞く」とは、一体、何を意味するのでしょうか。
中国の古典「大学」には「心ここにあらざれば、聴けども、聞こえず」と書かれています。
皆様、既によくご存じの所でございますが、漢字の「聞」という字は、「聞こえてくる」という、受動的な意味合いを持っています。それに対して、もう一つの漢字「聴」は、「じっと耳を凝らしてきく」という、能動的な意味合いを持っています。
漢字「聞」の初文は、爪先立っている人の姿の上に、大きな「耳」を象って、神の啓示を聞く姿です。
王(てい)は、爪先立っている人の姿で、普通聞こえる高さよりも、もっと上の、天井の世界に於ける音を意味しています。
その姿の上に、象られている大きな耳の形は、普通の人には聞こえない、神からの微かな呼びかけを聴くことが出来る人を表わしています。
「聞」とは、象徴的につま先で立っていて、良く聞こえる大きな耳を持っていると言う、普通では聞こえない、神からの呼びかけを聴きとることが出来る人の姿であり、神の呼びかけが聴こえる人の姿を象っています。
「聞法」と言う、昔から伝わる信心行がございます。
それは、大切な教えを、自己を空しくして聞くことを心がける行です。
私たちも、教えを、自己を空しくして、聞きたいものです。
「きく」というもう一つの漢字「聴」の左側の偏は耳と王(てい)、それと徳の旁(つくり)とに従っています。
漢字の「聴」とは、神の声を聴くことが出来る徳あるもの、神の声を聞き取る能力があるということを意味しています。
「傾聴」という言葉をよく耳にします。
それは、耳を傾けて、熱心に聴くことです。
相手の気持ちに寄り添って、注意深く、共感を持って聴くことを意味しています。
島田にも、傾聴ボランティアの会があります。独居の高齢者や病院や施設等で、苦しんでいる人の傍らで、相手の苦しみみにじっと耳を傾けています。
このグループは、「耳の会」と呼ばれています。
私たちも相手の気持ちに寄り添って、共感を持って苦しみに耳傾けたいものでございます。
前述の、爪先立って立っている人の姿の上に、大きな耳を象った「聞」の象形文字の、右側の旁(つくり)に、祝祷を収める器を象った口(さい)の字を添えると、「聖」と言う漢字になります。
「聖」とは、祝祷して、御言葉を収める器を手に、神の啓示を、じっと聴き取ることが出来る人のことです。
私たちも、聖のように、祈りを深めて、天の声を聞きとれるようになりたいものです。
以上のように、漢字の「聞」「聴」「聖」の三つは、語源の上からは、耳にまつわって、同じものから成り立っています。
所で、日本語の「きく」という言葉は、第一に「音や声、言葉などを耳に感じとる、耳にする」ことを表わしています。更には、「音や声、言葉を耳にして、その内容を知る」ことを意味します。
それに加えて、「それに従う」ことも「きく」という言葉には含まれています。
インドゲルマン語系の「きく」という言葉も、日本語と同じように、ただ単に「耳にする」だけではなく、「従う」という意味も含んでいることは、興味深いものがあります。
論語の「六十にして耳従う」を基にして、「六十は耳従」と言われます。
六十歳になったら、他人の意見に反発を感じることなく、素直に耳を傾けられるようになり、天の声に従うようになると言います。
私たちも、天の声に従う人でありたいものです。
その昔、詩人は、次のように謳いました。
「叩いている
叩いている
こころの扉を。
耳を澄ませ
耳を澄ませ
こころの耳を」
私たちは、日頃、世の中の喧噪に紛れて、慌ただしく、暮らしておりますが、四旬節を迎え、今、この時代に、こころの耳を、じっと澄まして、唯ひたすら、謙遜に「きき、従う」人でありたいものです。
主日のミサ
3月 7日 四旬節第3主日 中止
3月14日 四旬節第4主日 11時
3月21日 四旬節第5主日 11時
3月28日 受難の主日(枝の主日)
世界青年の日 11時
コロナ蔓延が終息しません。お互いに、感染予防に留意しましょう。
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